リボン食品を支えた人々

「ユニークさ」を信条とし、常に業界のパイオニアとして市場を切り開いてきたリボン食品。この会社を創り、発展させてきた経営者たちを紹介します。彼らは常にユニークな思想で物事を捉え、時代の流れをつかみ、夢を実現しようと日々チャレンジを繰り返してきました。

マーガリン製造の基礎を創った創業者、千足栄蔵

リボン食品の基幹であるマーガリン製造の礎を創ったのは、千足栄蔵(ちあし えいぞう)です。栄蔵は16歳の時に単身渡米し、ウィスコンシン・マサチューセッツ両州立大学にて酪農を専攻。渡米より約10年後、日本で酪農事業を経営する計画で帰国しています。
当時のバターやマーガリン消費量は微々たるものでしたが、マーガリンが有用な食品であることは徐々に知られていたようです。滞米時代に習得した技術を生かしてマーガリンの製造を始めるよう販売業者に勧められた栄蔵は、横浜に工場を設立。1907年、日本で初めてマーガリンを製造しました。
栄蔵はアイデアマンの側面もありました。日比谷公園前に日本で初めて開店したミルクホール(現在のカフェに相当)も彼のアイデアのひとつ。トーストが付きものだったため、マーガリン消費促進の面でも優れた案だったと言えます。
その後工場を東京・赤坂田町に移転、芝金杉町には販売部門を設立しましたが、1923年の関東大震災で双方焼失しました。栄蔵は大阪に移り、大阪神崎に「朝日製酪所」を創立。栄蔵の実弟である筏 盛三(いかだ もりぞう)も協力者のひとりとして参画、後にリボン食品株式会社の礎を築きます。

生涯をマーガリン技術の研究に費やした初代社長、筏 盛三

千足家から筏家の養子となった筏 盛三は、書生をしながらも英語が流暢で、明治時代に通訳の経験がありました。当時は極めて珍しいタイプライターを使いこなし、夏でも麻の白いスリーピースに帽子を着用したりと、新しいものやお洒落に対して、とても敏感だったことがわかります。
1936年、盛三は「KINGバター」の製造・販売を開始します。当時は「人造バター」と呼ばれており、現在に比べれば決して質が高いとは言いがたいものでしたが、KINGバターに対する世間の評価は上々だったと言います。KINGバターには「ブルーリボン」「レッドリボン」のラインアップがあり、これが後に「リボン食品」という名前の基となりました。
盛三は、マーガリンの研究に心血を注いだ科学者でした。晩年は研究室にこもりきりで、品質改良に取り組んでいます。生前、彼が愛用していたノートを見ると、手書きの化学記号がところ狭しと空白を埋め尽くしています。盛三は、現在もリボン食品が誇る高い製造技術の基礎を作り上げたのです。

「リボン食品」という会社と経営の地盤を固めた二代目社長、筏 大一

時は第二次世界大戦後。盛三の次男、筏 大一(いかだ だいいち)が戦地から戻ってきました。多くのものが失われた中、何か商売に着手したいと周りを見渡したときに遺されていたのが、マーガリンを造る技術でした。盛三から手ほどきを受けながらの手作業で、戦後のマーガリン生産を再スタート。盛三につかえ、開発・生産を引き継いだふたりの技術者が大一の両腕となります。
1948年、リボン食品の前身である油脂会社「大村油脂」創業。1960年に発売した家庭用バター風味マーガリン「バターリン」が爆発的にヒットし、財務を支えました。
マーガリンの製造技術は既に確立されていましたが、人々の口に合うとは言いがたいものでした。原因のひとつが「硬さ」。家庭用冷蔵庫や冷蔵車が普及していない当時のマーガリンは、常温でも溶けぬよう硬く作られていました。
大一はこう考えました。「バターのように柔らかいマーガリンを作ったら、パンにも塗りやすく、家庭でも使ってもらえるのではないか」。海外で特殊なバターフレーバーを見つけられたことも、売れるマーガリンを作れると確信した理由のひとつです。他社に先駆け質の高い製品を作れる高度な技術が、日本初の家庭用マーガリン生産を後押ししました。
折しも家庭には冷蔵庫が普及し始めた頃。もうひとつ、普及した家電製品があります。テレビです。大一はバターリンを普及させるため、テレビ広告をフル活用しました。バターリンは、日本で初めてテレビ宣伝した家庭用マーガリンでもあるのです。

ユニークな商品で新たな市場を切り開いた三代目社長、筏 純一

1962年、大一はリボン食品株式会社を設立。コンパウンドマーガリンのパイオニアとして業務用にも着手しました。さらに油脂を使った商品を作れないかと考えた末、大量の油に小麦、塩、水を加えて作るパイ生地に思い至ります。パイは当時一般家庭にはなじみの薄いものでしたが、一流ホテルのレストランでは既に使われており、手折りの職人が必要な手間のかかるものでした。大一は解凍するだけで使える冷凍パイを開発、手間がかからず高い品質が得られると好評を博し、リボン食品の主軸製品として成長させます。
さらに、パイで培った油と小麦を扱うノウハウを生かそうと冷凍ホットケーキを開発、1973年に販売を開始。ホットケーキは喫茶店の人気メニューでしたが、注文の有無にかかわらず鉄板を常に温めタネも作っておかねばならない、ロスの多い商品でした。冷凍ホットケーキも大ヒットし、大一はリボン食品の経営を盤石なものにします。
冷凍パイや冷凍ホットケーキのヒットの陰には、大一の息子、筏 純一(いかだ じゅんいち)の尽力もありました。純一は一流ホテルや喫茶店をつぶさに調査し、パイは非常に手間がかかり職人に大きな負担があること、ホットケーキの1日の販売数がどこも三食前後であることなど、現場のニーズを突き止めます。特にホットケーキは、「たくさんは売れないが絶対に売れる」をキャッチフレーズに食品卸売業者に売り込み、成功を収めました。
その純一がリボン食品を継いで社長に就任したのが1982年。三代にわたって受け継がれたパイオニア精神と高い技術力を駆使し、新しい市場や販路を求めてアンテナを張り巡らせました。
当時、製菓店にケーキの冷凍技術を提供しようと駆け回っていた純一は、ある製菓店店主の呟きに気を留めました。「ふわっと焼き上がったチーズケーキは、時間が経つとしぼんでしまう。扱いが難しい」。純一は、そこに活路を見出します。「ウチなら油脂の加減を調整して、つぶれず冷凍もできるチーズケーキが開発できる」。この狙いは大きく当たり、後の冷凍ケーキ・冷凍スイートポテトの開発基盤を作りました。中でも冷凍デザートケーキは最大で60数類の商品をもち、売上拡大に貢献しました。
「パイオニアであるが故に、数えきれないほどの失敗をしてきた」と純一は言います。いいと思ったものは、すべてトライ出来るような財務体質を作り続けるのが、純一の矜持であり、健全な会社経営に注力しました。食にまつわる多種多様な会社のよい点を取り入れられるリボン食品。何事にも挑戦する純一の行動力は、今ではリボン食品の強みへと変化し、その志は受け継がれユニークな商品開発を続けています。

*参考資料:日本マーガリン工業史

リボンの価値を最大化し続ける現社長、筏 由加子

祖父の大一、父の純一のパイオニア精神を受け継ぎ、幼少期から先代の眼差しを見つめてきた由加子。リボン食品の伝統の継承と革新の連続は誇らしく、同時に継承者としての責任も感じていました。由加子は、2004年デンバー大学を卒業した後、米国で就職します。異国での経験を通じ、リボン食品の魅力と偉大さを実感していました。「これからは、歴史のある会社が魅了する時代だ。」と由加子は帰国を決意します。
その後、由加子は2012年、開発部取締役部長として役割を果たしていきます。当時、リボン食品はデザートケーキ事業から撤退をしていたため新たな事業の柱を構築することが、由加子に与えられた任務でした。大一が考案した、解凍するだけで使える冷凍パイからほぼ半世紀。古くから黒子に徹してきたリボン食品。しかし、パイの真の価値を眠らせていた当時の社内状況が目に留まります。
「なぜ、パイ事業の強みに活かさないのか。油脂が作れて、パイを折り、焼成までを一貫して国内でできる企業はどこを探してもない。」「昔は今までにないモノが生まれやすい時代。しかしこれからは違う。いい製品を作るだけでは埋もれてしまう。もっと自分たちの強みを自らの手で伝えていくべき。」由加子は「パイと言えばリボン食品」を合言葉に、社内にある有効な企業価値を最大限活用しパイ製造を飛躍させます。中でもパイシェルに注力をしました。
パイシェル市場での認知を向上することで、課題であるパイ職人の不足を補うことができるからです。事実数年後には、リボン食品へのパイシェル需要が高まりシェア拡大に成功。パイシェル工場の増築へと繋がりました。
さらに由加子は世界と日本をつなぐ新しい戦略を企てていきます。2015年、NYで話題のスイーツブランド「Fat Witch Bakery」とパートナーシップを組み、日本でのブラウニーの製造販売を開始。翌2016年には「本場NYのブラウニーを地元の方に愛されるものにしたい。」という想いから、リボン食品としては初となる直営店舗を京都下鴨に開店させました。
由加子は、女性初の4代目社長として新しい視点による革新を進めています。「古いことと新しいことを共存させたい」。製品の革新からサービス、食への楽しさや探究心まで、広い視野で200年続く会社へと目指しています。純一が確立させたリボン食品の強みを活用し、お客様が求める価値を社員と共に最大化しようと努力し続けているのです。